創立100周年を迎えたマセラティ今年2014年に創立100周年の節目を迎えた自動車メーカーに、イタリアの名門スポーツカーブランド、マセラティがある。誕生から1年を経ずして亡くなってしまった3男を含めて7人いたマセラティ兄弟の4男、アルフィエリがオフィチーネ・アルフィオリ・マセラティなるガレージを北イタリアのボローニャに設立したのが、1914年だったからだ。 それを記念してマセラティ本社は9月中旬、歴代マセラティのオーナーやジャーナリストを世界中から北イタリアに集めて、Maserati Centennial Gatheringなるイベントを盛大に開催した。僕もそこにジャーナリストの一人として招待されたのだが、3日間にわたったそのイベントの初日は、古都ボローニャから始まった。まずはホテルから歩いて旧市街の広場に向かったが、その中心には三股の錨をかかげるネプチューン像が雄々しく立っていた。そう、それがマセラティのグリルに輝くトライデントの元になった像なのである。 そこから今度は中世を思わせる街並みの迷路のような道を歩くこと数分でVia de Pepoli=ペポリ通りに至るが、1914年にオフィチーネ・アルフィエリ・マセラティが設立された建物がその一角にあった。道路から数段下った半地下的な屋内は現在、1950年代風のバーとして使われているようだが、それでもなにやらメカニカルな空気が感じ取れたのは、当方の気のせいだろうか。でも実はこの最初のガレージからは、マセラティ印のスパークプラグは出現したものの、マセラティの名を冠したクルマは生み出されていない。 最初のマセラティ車は1919年に誕生最初のマセラティ車が登場するのはここが手狭になって1919年に移転した、同じボローニャでもエミリア通りに面した2番目の広いガレージからで、時に1926年のことだった。そのクルマがマセラティ・ティーポ26で、1.5リッターDOHC直列8気筒エンジンを搭載したレースカーだった。しかもこのティーポ26、アルフィエリ自身がステアリングを握ってその年のタルガ・フローリオにデビューするや、シチリア島を舞台とするこの過酷な公道レースを総合8位で完走し、同時に1.5リッタークラスで優勝するという好成績を手に入れたのだった。こうして、レースフィールドにおけるマセラティの輝かしい歴史が始まる。 ここで話を2014年9月に戻すと、最初のガレージを出た僕らは、ボローニャの美術館に舞台を移し、マセラティ家の末裔お二人の話を伺った。エルネストの子息であるアルフィエリさんと、アルフィエリ亡きあとを継いでマセラティを率いたエットーレの子息、カルロさんである。お二人とも、すこぶる知的な雰囲気を持つ方だったのが印象深かった。 クラシック・マセラティの美に酔うさて、昼食のあとは40kmほど離れたモデナに移動し、本来フェラーリのミュージアムであるMuseo Casa Enzo Ferrariに特別展示されているヒストリックマセラティを見学した。その展示車両はいずれも興味深いものだったが、なかでも僕が初めて現物を前にしてその美しさに目を奪われたのは、マセラティが当時のペルシャ=イラン国王の要請に応じて仕立てた、カロッツェリア・トゥーリングのボディを纏う1959年マセラティ5000GTだった。 その後、戦前末期から戦後の70年代までマセラティのパトロンだったモデナのオルシ家の末裔、アドルフ・オルシさんを主賓としたコンファレンスがあり、それが終わってモデナ旧市街のピアッツァ・グランデに向かうと、そこには100周年を祝って世界中から集結した新旧マセラティが並んで、パレードに出るのを待っていた。僕らも広報車のグランカブリオMCと最新のクアトロポルテに分乗して、パレードに出発するのを待つ。 だがさすがイタリア、スケジュールは遅れに遅れ、僕らがパレードに出発した頃には、あたりは暗くなり始めていた。そのパレードランを街外れの巨大な地下駐車場で終えると、そこからバスで向かった先はモデナのマセラティ本社工場だった。なんとその生産ラインでパヴァロッティ財団によるオペラ演奏ののち、ディナーと相成ったのである。こうして猛烈にスケジュールのタイトなイベント初日は、なんとか無事に終わったのだった。 グランカブリオMCでストラディバリウスの街へ2日目はボローニャのホテルからミニバンでモデナに移動、そこからマセラティ現行モデルを駆って400kmほど離れたトリノまで走っていく。日本人グループのクルマは前日と同じグランカブリオMCとクアトロポルテの2台だが、僕はまずグランカブリオのステアリングを握って中継点、ストラディヴァリウスを生んだバイオリンの街、クレモナを目指す。 バイオリンの聖地に入る前に、郊外のクレモナサーキットに立ち寄った。ヒストリックマセラティなどによる参加者は、そこでスポーツ走行を愉しんでいたが、僕らはパドックに立ち寄っただけである。ところで、グランカブリオMCで、ときにオープンエアを愉しんだりしながら爽快なドライビングを味わってあらためて認識したのは、あれだけ開口部の広い4座オープンでありながら、ボディ剛性が見事に確保されていることだった。 さて、クレモナではバイオリンのショートコンサートも予定されていたが、日本グループはモデナ出発時に某TV番組の撮影に付き合っていたため間に合わず、昼食をとっただけでクレモナを出発、今度はクアトロポルテに乗ってアウトストラーダに乗り、一路トリノを目指した。僕は主にリアシートに座っていたけれど、たしかにそいつは快適だった。 未来のアルフィエリと1954年のA6GCS夕方にトリノに入り、時間どおり指定の場所にいってみたら、駐車場の扉が閉じたままというハプニングがあって、またスケジュールに遅れが出たところで、バスに乗ってトリノ中心部のホテルへ。そこでノンビリする暇もなく、シャワーを浴びて着替えに移る。実はこの夜、今回のイベントで最も公式なガラディナーが営まれることになっていて、ドレスコードはブラックタイとされていたのだ。そこで当方、必要あって10年ほど前に購入して以来、ほとんど着用した記憶のないタキシードに袖をとおし、これも滅多に履かないドレスシューズに足を入れて、ガラディナーへの出陣と相成った。 その会場たる、トリノ郊外のレッジャ・ディ・ヴェナリーア・レアーレなる名前の世界遺産に登録されているという壮麗な館に着くと、広大な石張りの前庭にライトアップされてディスプレイされた、2台の新旧マセラティGTが目に入ってきた。左に真紅の1954年A6GCSベルリネッタ・ピニンファリーナ、右に次期グラントゥーリズモのコンセプトモデルとされるシルバーのデザインスタディ、その名もアルフィエリである。 フィアットクライスラー総帥登場プレスが150人、オーナーをはじめとするゲストが500人ともいわれるブラックタイとカクテルドレスの一行が一堂に会してのディナーはなんともスケールの大きいもので、マセラティの100周年を祝うに相応しいものだったが、その最後を締めたスピーチの主の出で立ちは、僕が予想したとおりとはいえ、意表を突いていた。それはフィアットクライスラー総帥のセルジオ・マルキオンネCEOで、ダークな色のクルーネックセーターにコットンパンツといういつものスタイルで、フォーマルウェアの集団のなかにやってきたのだった。 この日もまたスケジュールは押し気味で、夜会が跳ね、シャトルに送られてホテルに戻ったときには、日付はとっくに翌日に変わってすでに1時間近くが過ぎようとしていた。 最新のマセラティ製造ラインも見学最終日たる3日目は、トリノ市内にあるMuseo Nazionale dell’Automobile=国立自動車博物館を訪問することから始まった。そこは、さすが多くのレーシングカーやスポーツカーを輩出し、世界のスタイリングデザインのリーダーでもあったイタリア自動車産業の中心地に居を構えるミュージアムだけあって、展示物も展示方法も興味深いものがあった。トリノを訪れる機会のある読者諸兄がいたら、ぜひ足を運んでみることをお勧めしたい。 自動車博物館で歴史を目の当たりにした後、今度は最新の自動車製造の現場に足を踏み入れた。新生クアトロポルテとギブリを生産するためにトリノに新設された、グルリアスコ工場を訪れたのだ。ここは、2015年に年産5万台という目標を掲げるマセラティの事業計画の主翼を担う場所で、その目標台数の大半の生産を賄う能力を持つ。各部にロボットを多用したそのアセンブリーラインは、最新鋭の自動車ファクトリーの雰囲気に満ちていた。 それでも、グルリアスコがさすがイタリアの、しかもプレミアムなスポーツモデルを生み出すファクトリーらしいと思ったのは、アセンブリーラインを構成する工作機械やロボットそのものが、充分鑑賞に耐え得る美しいデザインを与えられていたことだった! コンコルソ・デレガンツァ注目の2台工場見学のあとはイタリア語でコンコルソ・デレガンツァ、英語でいうコンクール・デレガンスに移るが、その会場がトリノ中心部屈指の繁華街にある広場、ピアッツァ・サンカルロだったところに、現在のマセラティの親会社、フィアットのパワーを感じさせた。 その広大な広場にゆったりと並べられたヒストリックマセラティは、すべて公道を自走できるロードカーだから、戦前のレーシングモデルなどは含まれていない。そこで、オルシ家の末裔、アドルフ・オルシ氏、元ピニンファリーナのデザイナー、ロレンツォ・ラマチョッティ氏、それに日本のマセラティクラブ会長を含むマセラティのオーソリティが選んだコンクールカーは、1967年製というフルアボディを纏った4.2リッターV8搭載の2+2クーペで、メキシコのプロトタイプだとされるクルマだった。 F40も手掛けた元チーフデザイナーに会うそれとは別に僕自身が魅了されたのは、コンコルソ参加車のなかで最も旧い、ピニンファリーナボディの1954年A6GCSベルリネッタだった。レーシングスポーツカーのシャシーをベースに使って4台だけ製造されたこのクルマのボディは、今日のグラントゥーリズモに応用されているグリル内側の凹面処理など、特徴的なデザイン要素を数多く持っているが、実はこの日、これをデザインした人物に遭うことができたのは大きな悦びだった。 その人物の名はアルド・ブロヴァローネさん、トリノ在住、御年88歳。チーフデザイナーの座にあった時期を含めて、1953年から80年代末までピニンファリーナに在籍した人で、このマセラティは彼のピニンファリーナにおける最初の作品だという。ちなみにピニンにおける最後の仕事は1987年のF40だというから、驚くほど息の長いデザイナーである。 ブロヴァローネさんと握手を交わしてお別れし、彼がピアッツァ・サンカルロの角に消えていくのを視線の端で見送った頃に、コンコルソ・デレガンツァも終わった。あとはトリノ市内で夕食に集まれば、僕らのマセラティ創立100周年記念イベントもすべて終了する。マセラティが数奇な運命を辿った末に現在の繁栄があるのと同様、いくつかハプニングもあったイベントだが、終わってみれば妙に懐かしい、初秋の北イタリアの3日間だった |
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