「箱スカ」から「プリンス自動車」へ思いを馳せた8月に開催された「オートモビル カウンシル 2016」では「初代箱スカ」や「R380」という往年の名車やレースカーが展示され、「プリンス自動車」を偲ぶイベントとなった。今年は日産自動車とプリンス自動車工業が正式に合併してからちょうど50年目にあたる年だ。敗戦後わずか20年で純国産レーシングカーを開発したプリンス自動車とは、どんなメーカーだったのだろうか? 実は私自身が18歳で四輪の免許をとり、最初に乗ったクルマが当時の花形スポーツセダンであった「スカイライン 2000GT」だった。「箱スカ」の愛称で親しまれたこのクルマこそ、戦後日本の旗手として自動車技術を牽引してきたプリンス自動車の申し子だ。当時はそんな伝説を知らないで乗っていたわけだ。 そもそも箱スカに決めた理由は2つある。自宅から最も近いディーラーが日産プリンスだったのと、父はトヨタ車よりも日産車のほうが品質が良いのではと考えていたからだ。型式番号GC10の箱スカは新車でも90万円弱で買えたが、1972年頃は今の200万円に相当する買い物だったと思う。 当時、「プリンス」は日産自動車の一つの事業部として存在していて、富士スピードウェイでは「スカイライン GT-R」が連勝中で不敗伝説が築かれていた。しかし時代を遡ると、プリンス自動車は決して光り輝く時代だけではなく、むしろ悲運の歴史のほうが長かったのではないだろうか。 プリンス自動車はどんなメーカーだったのか?プリンス自動車は1966年に正式に日産に吸収合併されるが、その前身となる「富士精密工業」は、戦後、GHQによって軍需産業の「中島飛行機」と「立川飛行機」という2つの航空機メーカーが解体された後、紆余曲折を経て誕生した企業のひとつだ。そのためプリンス自動車は、戦闘機を作った中島飛行機のDNAを中心に、爆撃機を作った立川飛行機も併せて受け継ぐことになった。そんなプリンス自動車のエンジニアが強者揃いだったことは容易に想像できる。ちなみに「プリンス」という社名の由来は、富士精密工業の乗用車を当時の皇太子(現在の天皇陛下)がお乗りになったことから来ている。 同社を代表するエンジン設計者の一人であり、中島飛行機で戦闘機のエンジンを開発していた故・中川良一さんにインタビューしたことがあったが、プリンス自動車が海外メーカーと提携しなかった理由を「人のモノマネはしない」と語っていたのを今でも覚えている。プリンスは最後の最後まで独自で先進的な技術を探求する技術集団だった。まだヨチヨチ歩きの他の日本メーカーは外資と提携して技術を磨いたが、プリンス自動車だけはオールジャパンを貫いたのだ。 オートモビル カウンシル 2016で展示されていたレーシングカーの「プリンス R380」はブラバムのシャシーを使うが、GR8型エンジンと車体はプリンス自動車がオリジナルで設計した。戦後わずか20年という今考えても驚異的な短期間での偉業であり、同時にGR8型エンジンをベースに市販化したS20型エンジンを搭載した箱スカ(プリンス スカイラインGT-R)も生み出したのだ。 今思い返してみると、日産に合併されたことでプリンス自動車のエンジニア魂の火が消えてしまったことは、今日に至る日本の自動車産業にとって悲運だったのではないだろうか。プリンス自動車のDNAを正当なビジネスに導ける指導者がいたら、日本からポルシェやBMWのような自動車メーカーが育っていたはずだ、そう私は思っている。 【こちらもオススメ】 |
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