自動車はますます責任が求められ、失敗が許されなくなる2015年、小沢コージ的になにに驚いたって「自動運転」と「VWスキャンダル」でありましょう。VWについては今さらなので省くとして、両者が奇しくも象徴しているのは、今後自動車がエコ的にも安全性的にも倫理的にもますます高いレベルの完成度を求められるという事実だ。 それは現代人が人間的常識や親切心だけでなく、技術的知識やリテラシーを求められることにも似ていて、いくら性格の良いナイスガイだろうが、スマホやパソコンの扱いが苦手だと情弱(※ネット常識に欠けることを揶揄する蔑称)とか言われたり、メールを誤送信すればバカにされたりする。人もマシンもますます技術力と責任が求められ、失敗が許されなくなるのだ。 どんなに技術が進化してもトラブルはなくならないだが不躾小沢コージ、誓って申し上げるが、この手のトラブルは絶対になくならないだろうと考える。なぜなら技術進化は必ず失敗を伴うし、自動運転にしろ今後間違いなくますます複雑怪奇なものになるからだ。 反対意見もあろうが、もしや自動運転は原発以上に読めない技術になるかもしれないと想像する。原発は知っている人も多いが、1970年の大阪万博の時には「夢の技術」ともてはやされ、開会のタイミングで敦賀原発1号機から初めて送電がなされた。当時は人をシアワセにする画期的先進技術だったわけだ。 それは今の状況を考えると悪い冗談のようだが、それが2015年の東京モーターショーでもてはやされた自動運転の将来像にならないとは決して言いきれない。 小沢コージよ、いくらなんでも原発と自動運転を一緒にするな、という意見もあるだろうが、それはリスク規模の話であって、どちらもサキヨミ出来ない未曾有の先端技術ということでは案外近いと思うのだ。 自動運転やロボット化の流れはもう止められないそして今年、小沢が良くも悪くも最も感動したのはアベノミクスがそこに対して積極的に舵を切ると公言したこと。内閣府はもちろん経済産業省、国土交通省、総務省、そして警察。昭和の時代に、数々の交通ルールと苦労して付き合ってきた人間としては隔世の観すらあるが、いくら新技術とは言え、あの警察様が両手放しの開発テストをメーカーに対して容認するとは想像すらできなかった。つくづく世の中はリーダーや社会の合意で変異するものなのだ。 今や世界は自動運転やロボット化に向けて真剣に前進しており、その流れは止めようがない。さらに面白いのは、そういう時代でありながら、マツダのように「人間が一番の安全装置」として考えるメーカーも相変わらずあり、スポーツカーはなくならないことだ。 要するに「マシン」が優れているのか? 「人」が優れているのか。これから哲学の領域を含む長い戦いが始まると言うことなのだ。 人にもマシンにも100%を求めない心が大切3年ぐらい前まで、先進ブレーキは「被害低減ブレーキ」と呼ばれていた。あくまでも人間の「補助」であり「支援」だった。しかし、それは去年か今年あたりからハッキリ「自動ブレーキ」と呼ばれるようになった。この違いはデカい。人を頼らない先進技術の可能性を一般社会が認め始めた証拠だからだ。 人間はもちろん完璧じゃない。しかも、一部のマシンは確かに人の能力を超えている。機械は24時間疲れずにピークパフォーマンスを保てるし、一部センサーは人間の耳や目の能力を超えている。上手く行けば、チェス競技でコンピュータが人のチャンピオンに勝つように機械は人間に勝つ。そして実際にその戦いを、公道をステージとして来年から始めると自動車界は宣言してしまったのだ。ある種、パンドラの箱が開けられたようなキブンだ。 これから運転という人の命がかかったステージにおいて人とマシンの性能競争であり、戦いが始まる。これは物凄いことだ。2016年以降こそが、本当の報道であり、僕らの存在意義が問われる時かもしれないと考えている。 その時大切なのは、冷静に人に対してもマシンに対しても100%を求めない心だ。特にマシンに100%を求めたら、この試みは失敗する。人より少しマシならいいじゃないか…と常に判断できていれば上手くいくと思うのだが。 |
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