「ドライビングプレジャー」は決してひとつではない車社会にまつわるモロモロのため、わたしの血圧は今日もまた微上昇を記録した。 某所にて、私に言わせればかなり旧態依然とした試乗記事を読んだ。その話者によれば、某車は「ドライビングプレジャーに少々欠ける」のだそうだ。ひらりひらりと軽快に走ることができないのがやや残念である、と。 もちろん気持ちはわかる。わたし自身も個人的には鈍重な車よりは軽快な車、あくまで一例だがプジョー106やスズキ スイフトスポーツのような車を好むからだ。 だが106やスイスポのような車が与えてくれるドライビングプレジャーというのは「数あるドライビングプレジャーのなかのひとつ」でしかなく、「ドライビングプレジャーそのもの」では決してないと思っている。 昭和の時代は、ひらりひらり系に代表される「狭義のドライビングプレジャー」こそがほぼ唯一の正義だった。まぁあの時代はハッキリ言って出来の悪い車も多かったため、ひらりひらりと軽快確実に走れるぐらいの車じゃないと話にならない――という事情もあったが。 しかし時代は変わった。今や「極端に出来の悪い車」というのはなく、まぁ正直イマイチだなと思う車でも、ごく普通に用を足す分には何の問題もない場合がほとんどだ。何を運転したって目的地には普通に到着するのである。 そういった状況下では、当然ながら「さまざまな正義」が生まれる。ありがちなフレーズで言うなら「価値観の多様化」ってやつだ 自動車メディアは価値観の転換を求められているある者は、昭和時代と変わらぬ「ひらりひらり」や「強烈な加速」などに代表される狭義のドライビングプレジャーを求めるだろう。もちろん、それはそれで良い。 だがある者は、そうとばかりも思わなくなる。 「ナマクラすぎる車は勘弁してほしいけど、ある程度普通に動いてくれるなら、あとは居住性とか燃費とか安全装備とか、あるいは快適装備みたいな部分こそを重視したいよ。そんな車に乗って、家族で楽しくお出かけしたいよ」 そのような価値観だって生まれてくるだろう。ていうか、すでに生まれているだろう。 既存の自動車メディアも無論そこに気づいていないわけではない。 だが旧来の価値観に片足を突っ込んだまま、無意識にかもしれないが、昔ながらの批評軸だけで物を言っているケースもいまだ散見されるのだ。それが、私の血圧を微上昇させるのである(試乗記における「走り写真」の多くが、どんなカテゴリーの車でも「豪快な走りっぷり」を表現している写真である点も珍妙だ。軽自動車とかは、そのへんの横丁で撮影するほうが、よりその車の美点が引き立つのではないか)。 大きなお世話ではあるが、「ひらりひらり」や「強力な動力性能」というのは今やドライビングプレジャーの一形態でしかなく、ほかにもさまざまな形態のプレジャーがあることに、自動車メディアはより意識的になるべきろう。 ミニバンの「艦長プレジャー」も立派な「プレジャー」例えば「艦長プレジャー」だ。 艦長プレジャーというのは私の勝手な造語だが、要するにミニバンやら3列シートのSUVやらの「けっこう大きくて大人数が乗れる、お船のような車」を艦長(車長)として操縦する際に感じる、誇りや喜び(プレジャー)のことである。 車体を極力揺らさず、後席の乗員がぐっすり居眠りできるぐらいスムーズに、そして最終的には事故なく安全に、さらにできれば燃料費をあまりかけずに「車長」としてのミッションを完遂できた際の、大いなる喜びと誇らしい気持ち。 それは、箱根とかの山坂道で華麗なコーナリングをキメるのとは別種のプレジャーではある。だが「プレジャーの総量」にさほどの違いはないはずなのだ。そのあたりをもっと積極的に掘っていくメディアがあっても良いはずだと、私は考えている。 もちろん、上記の「車体を極力揺らさずスムーズかつ安全に」という運転は、「山坂道で華麗なコーナリング」的な機械の資質があって初めて成り立つ場合もある。それゆえ、旧来の批評軸が完全に無意味になったわけでもなかろう。 だが、車のカテゴリーにかかわらず昔ながらの批評軸のみに基づいている論説は、さすがにそろそろ本気で勘弁してほしいのだ。 (ジャーナリストコラム 文:伊達軍曹) |
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