最古のポルシェ、タイプ64はどんなクルマか?毎年8月中旬に開催されるモントレー・カーウィークではメインイベントのペブルビーチ・コンクール・デレガンスが有名であるが、前夜に行われるRMサザビーズの主催するカーオークションも面白い。下世話だが、レアなクラシックカーが一体どれくらいの値段で取引されているのか知ることができるからだ。 今回の話題は「ポルシェ タイプ64」が登場することだった。“最初(最古)のポルシェ”とも言われるこのクルマは、当時の枢軸国ドイツとイタリアが1939年に国威発揚を狙って企画したベルリン~ローマ間1500kmのレースに参加するために、フェルディナンド・ポルシェ設計事務所が「ビートル(※)」のシャシーをロイター・カロツェリア(Reuter Carozzeria:後のシートメーカー、RECARO)に持ち込み、全長およそ4.15m、ホイールベース2.4mのアルミ製ボディを作らせたのだ。その重量は535kgで各所に軽量化の苦労が見えるが、内側のドアハンドルがロープで、これは現代のポルシェ軽量モデル(ボクスター スパイダーなど)にも継承されている。 (※)当時はまだ「ビートル」というモデル名ではなく「KdFワーゲン」と呼ばれていた。命名はヒトラーで、KdF(歓喜力行団)はナチス政権下で国民に労働の余暇としての娯楽などを提供した組織。 前後のホイールまでカバーされた流線型のタイプ64は前面投影面積を小さくするために助手席をオフセットさせていたが、これは2014年に登場した「VW XL1」(※リッター111km走るVWの超低燃費カーで250台生産された)にも見られる手法だ。最終的にタイプ64のCd値は0.385であった。 ちなみにフロントのタイヤカバーはローラーで吊られており、大きくステアした場合でも問題はない。またフロントには2本のスペアタイヤが収納されている。 空冷水平対向エンジンの排気量は985ccで、最大出力35ps、最高速度は当初160km/hが目標であったが、40psにフルチューンしたモデルではファイナルを引き揚げて173.5km/hにまで達する計算になっていた。もっとも実際のところは145km/hであったとの記録がある。 ポルシェ一族のファミリーカーとしてこの最初のモデルが完成するかしないうちにヒトラー率いるドイツ軍はポーランドに侵攻、第二次大戦が勃発してしまい、ベルリン~ローマ・レースはキャンセルとなった。 しかし、スポーツカー製作にこだわったポルシェの手によって2台目が1939年12月に完成。さらに1940年6月には事故で全損した1号車のシャシーに3台目が構築された。これら全てのクルマはKdFワーゲンのパワートレーン/シャシーをベースに作られたものだ。 この3台目はフェルディナンドと息子のフェリー・ポルシェに引き取られ、ファミリーカーとして実用にも使われていた。そして翌1941年にレストアした時に「PORSCHE」のバッジが付けられたらしい。それは自動車メーカーのポルシェという意味ではなく、「ポルシェ設計事務所」が手掛けたクルマという意味だったはずだ。 というのはポルシェが1948年6月8日にオーストリアの運輸局から認可を得て製作した第1号車は「356 ロードスター No.1」であり、フェリー・ポルシェ自身も「私が夢見たクルマがようやく実現した!」と語ったほどであったからだ。 そして翌月11日にインスブルックで開催されたレースに、実業家で自らもレーシングドライバーであったオットー・マテの手でドライブされたタイプ64にもPORSCHEの文字が明らかに見られたのである。どうやらポルシェは参加したイベントで少しでも多くの自社製モデルを見せたかったようである。 オークションでの誤表示と消せないナチスの影オットー・マテはこのタイプ64を気に入り、一年後に購入した。その後、このタイプ64はいくつかのレースに参加。1950年のアルペン・カップでは優勝を果たしている。このクルマは彼が1995年に没するまで彼の下にあった。 その2年後、ポルシェ収集家のトーマス・グリューバーが購入、フルレストアして今回のオークションに登場したわけである。前評判では20億円という天文学的な額が噂されていた。 ところが、このタイプ64は落札されなかった。理由はいくつかあったが、一番の“事故”はオークション会場のデジタル表示が1300万ドル(約14億円)のはずが3000万ドル(約32億円)に、さらには1700万ドル(約18億円)が7000万ドル(約74億円)にと2度も大きな間違いを表示したことで、入札者が辟易してしまったのだ。 さらにこれは私の考えだが、このクルマは正式には“最初のポルシェ”ではない。すでに説明したが、タイプ64はポルシェとエルビン・コメンダ(Erwin Komenda)とヨーゼフ・ミックル(Josef Mickl)など彼のチームが設計製作したのは確かだが、当時のポルシェは“設計事務所”であり、自動車メーカーではなかった。故に正式に認可をとってNo.1カーとなったのは356ロードスターだったのである。 そしてこのクルマはあまりにもキナ臭い。つまり当時のナチス政権による国威高揚のイベントを盛り立てるために製作されたものなのだ。故に翌日の報道では「ナチの遺産は落札されなかった!」というタイトルまで見られたほどだ。 アメリカのコメディアン、ジェリー・サインフェルドがそうであるようにリッチなポルシェ ・コレクターの多くはユダヤ人である。彼らにとってタイプ64は負の遺産なのだ。ポルシェ博物館がこれまでにこのクルマに興味を示さなかったのは、こうした理由があるのかも知れない。 こうしてタイプ64は多くの人々の前から夢のように消え去った。こんな悲惨な結果ではしばらくは公の場には出て来ないと思う。例外的に実車に触れさせてもらった私は“強者どもが作った80年前の夢の跡”をひしひしと感じたのだった。 |
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